戒厳令下のフルオさん

- 続 FOOL ON THE WEB -

GLP 昭島プロジェクトについて考える

今日(8/18)、GLP昭島プロジェクトに関する事業者説明会に行ってきた。このプロジェクトは、玉川上水に隣接した貴重な自然が残された代官山(昭島市の代官山です。あの代官山ではありません。)周辺に広がるゴルフ場を廃止し、物流施設及びデータセンターを建設するもの。

 

このプロジェクトは問題がかなりあり、住民の関心も高い。今回の説明会にも200人以上の市民が集まったのではないだろうか?元環境アセス技術者の立場として言うと、これだけの反対派住民がいるとかなりやりにくいな、と言う印象。もちろん全ての人の意見が反対ではないだろうけど。あと、やりにくいとは言ったけれど、僕もこのプロジェクトには反対の立場。今はもう現環境アセス技術者ではないからね。スタンスとしては「やたらと環境アセスにうるさい厄介なオッサン」を目指している。

 

で今回の説明会、以前の計画から結構変更があった。事業者が目玉だと思っているであろう計画変更点は、自然の残る代官山を囲うように配置された物流棟とデータセンターを集約し、代官山の北側に緑地広場を作り、玉川上水と代官山を繋ごうというもの。

今回の説明会ではその計画変更を、さも有用なことのように喧伝していた。

 

でも今回集まった住民の主な関心は交通計画。説明後の質疑でも交通量増加による渋滞と安全に関する質問が多かった。

そういった質問に対して、事業者側、解答担当は交通コンサルタントだったけれど、しきりに「分散」と言う言葉を使って影響を軽減させるような話をしていた。でも、これははっきり言ってコンセプトが間違っていると思う。理由と問題点はあとで述べる。

 

書き散らかしなので話は前後してしまうけれど、緑に関しても、緑地を作ることに実質的な意味があるようには思えなかった。で、緑に関してはあまりに新設の緑地のメリットばかり話すので、住民側は少しはぐらかされてしまったかもしれない。質問が少なかったのはそのせいかも。でもこの緑に関する計画もコンセプト倒れのような気がして仕方がない。僕は生活系のアセス担当だったので、自然系は門前の小僧なんとやらだけれど、一般の人よりは多くの情報に接しているつもり。

 

で、つらつらと書いていてもわかりにくいと思うので、計画でおかしいなと思ったところや今回議論が詰め切れなかったなと思う点を箇条書きにしてみたいと思う。

説明会の要約や質疑の詳細については、他のグループの人がもっと上手に報告してくれると思うのでそれを見てください。僕のこの文章は明日(もう今日か)の説明会の予習や参考になれば嬉しいです。

 

【緑について】

1.事業者はしきりに「緑の利用」ばかり説明していたけれど、この考えって古くないだろうか?アセスの評価項目として、自然系(動植物・生態系)に加えて『人と自然との触れ合い活動の場』という項目が追加されて約20年経つかと思うけれど、もう20年経っているし、はっきり言って項目として盛り上がってない。

 

2.1に加えて、現在は緑に関する住民の関心は、利用よりも保全や存在自体に関心が移ってきている。これは利用する自然から保全する自然へ、再び関心が戻ったというべきなんだけれど。神宮外苑の例を見ても、住民の関心が利用よりも保全にあることは間違いないと思う。

 

3.今重要視されている『生物多様性』も人間による適切な干渉が重要だとされている訳で、利用という単純な干渉では『生物多様性』は保全されない。

 

4.都市環境においては、利用者が制限されるゴルフ場であっても、生態系や景観の面から重要。利用が少ないからと言って簡単に潰していいものではない。最近は都市環境の中に残存する自然、たとえそれが人為的な自然であっても、その環境を利用して都市に戻ってくる野生動物が重要視されている。

 

5.ゴルフ場に囲まれた代官山の林地にはオオタカの生息が確認されている。オオタカは近頃個体数が増えて、アセスでは貴重種として扱われなくなりつつあるけれど、まさに「都市に戻ってきた野生動物」として重要だろう。ゴルフ場は餌場などの生息域になっていないだろうか?そして新設される中央公園はその役目を果たすのだろうか?

 

6.自然保護団体の調査では、同じく代官山にアナグマの生息が確認されているらしい。アナグマは実は希少な野生動物で、例えば千葉市緑区若葉区はかなりの自然が残されている)では1984年以降、公式には確認されておらず、絶滅種となっている。

https://www.city.chiba.jp/kankyo/kankyohozen/hozen/shizen/documents/redlist.pdf

 

7.玉川上水と代官山をつなぐ形で中央公園を作り、自然の回廊(コリドー)を作ることをコンセプトとしているようだが、芝生広場として誰もが利用できる土地が、果たしてコリドーとして機能するだろうか?むしろ現況のゴルフ場として利用が制限されていたことが、代官山の貴重な生態系を育んでいたのではないか?

 

8.そもそも計画されている中央公園と代官山の間には、事業者自ら運送車両を通す道路を新設する予定であり、運送車両は24時間通行すると説明されている。これでは陸上動物は夜行性の種でさえ代官山と中央公園間を行き来することはできない。

 

【交通計画について】

1.類似計画としてアルファリンク流山と相模原の例が出されていたが、立地条件が違いすぎる。流山は圏央道のインターまで直線距離で500m、相模原は上溝バイパスに隣接している。昭島の立地は16号まで1.8km、八王子インターまで5kmであり、交通状況は劣悪と言っていい。

 

2.さらに事業計画地は、南を青梅線、北を拝島線に挟まれており、さらに西側は青梅線八高線拝島線が集合しており、線路を越えずに域外に出ることはできない。このような土地が物流施設の設置に適切なのか、住民に説明が全くなされていない。

 

3.今回の説明会では昭島市立川市と協議をしていることは説明されたが、その他の鉄道事業者、警察、都の建設事務所との協議は進めているのだろうか?

 

4.交通計画、すなわち発生交通の処理については、頻繁に『分散化』という言葉が使われていたが、これはコンセプトとして正解なのか?分散化するということは、影響範囲が広がるということである。住民は道路が狭く渋滞が生じている地域にさらなる交通問題が拡大することを受容するだろうか?

 

5.発生交通の処理を『分散化』させることしか選択肢がない地域が、果たして物流施設の立地として適切なのであろうか?

 

6.『分散化』による影響範囲の拡大は、交通安全面で問題はないだろうか?環境面については「薄く広く」すればよいが、交通事故による不幸は「薄く」はならない。一件の交通事故が住民を深い悲しみに陥れてしまう。分散化は交通事故の可能性のある地域を「広く」するだけではないのか?

 

【全般】

1.今回の説明会では、事業の実施と新しい環境対策の『メリット』ばかりが説明されたが、『デメリット』についてはどうなのか?そもそも、環境負荷を評価し軽減するためには、デメリットを把握し、その軽減について検討すべきである。

 

2.今回発表された中央公園については、現存の緑地を残すというのが実際のところである。また、その方法は施設の効率化、集約化によるものであり、事業を縮小することによるものではない。環境緩和(ミティゲーション)の三段階である『回避』『低減』『代償』のうち、最も初歩である『回避』である。これだけ住民の関心が高い環境改変において、初歩の段階だけの対応で良いのか?『低減→事業の縮小』『代償→代替となる自然の創出』についても検討すべきではないか?

 

3.説明会資料について、「複製及び利用にあたっては当社の許諾を必要とします」とあるが、これは住民による周知や集会などでの報告・議論を制限するものではないか?

 

以上、長々と書き連ねてしまいましたが、なんらかの参考になれば幸いです。明日の説明会に間に合うでしょうか?

なお、参考にしていただくにあたって、特に僕に報告や許可を得る必要はありません。引用元の表記もいりません。皆さん自由に使ってください。コピペしてどんどん使ってください。

僕の叔父が「コピーライトはもう古い」と言っているので、それを真似することにします。

 

あ、もちろん参考になれば、ですけれど……

 

※ご質問等ありましたら、僕のTwitterアカウントまでご連絡ください。その際、議論は公開して共有したいので、できればDMではなくリプライにてお願いいたします。

 

※肝心のTwitterアカウントを書き忘れてました。

@foolontheweb

です。こういうところ、抜作さんだねぇ。

Strict過ぎない?

深夜に目が覚めてしまって、で、そういう時って一つの考えが頭蓋骨の裏あたりに引っ付いて剥がれない。なのでちょっと日記に書いてみる。これは鍋の焦げをヘラでこそぎ落としたり、冷凍庫の霜を空瓶で崩したり(ホントに冷凍庫の霜は空瓶で叩くと笑っちゃうくらい落ちるんだよ!試してみて!ってもう今は霜なんかつかないか)する作業みたいなもんで、落着するとかは考えていない。

 

昨日の16時から24時間、Twitter(X)を、投稿はもちろん見ることもやめていた。ようわからんけどなんかそういう運動があったようなので。Twitterを見なかった分、本や新聞を読むようにした。で、わかったことなんだけれど、「校閲された文章だけを目にするのはこんなに心地の良いことなのか」ということだった。どうもこのところというか、かなり前から気になっていたんだけれど、本とかテレビとかって必ず校閲作業が入ってますよね。雑誌とか生放送とか、いくらかいい加減なものもあるけれど、少なくとも校閲とはいかなくとも「他人の目を経ている」って大切なことなんだなと。ネットの情報が既存のマスコミと大きく違うのは、この校閲の有り無しなのかな?と。

 

たぶん、新しいメディアに対応している人はこの部分、自分で校閲する客観的なフィルターを持っていて、それを通して見ることができるんだろうけれど、僕はその素敵アイテムは残念ながら持っていない。剥き出しの情報を剥き出しのまま見てしまう。

 

これって結構、自分の心の余裕を削っちゃうんですよね。他人と同じかどうかはわからないけれど、所謂ネット疲れ。いや、ダイレクトなものをダイレクトに見るって凄く刺激的で蠱惑的なことなんだけれど、やっぱり荒削りなことは否めなくて、100番くらいの紙ヤスリで擦られたような感覚が残る。

 

僕はこういうところ、やっぱり古い人間(なんたってフルオを自称していますからね)なんで、荒削りされた後、目の細かいヤスリで整えられて、別の仕上げ屋さんが磨いたもの、ことによってはそこからさらに漆師の手に渡って艶々の漆塗りに仕上げられたもののほうがしっくりくる。心地よい。理解しやすい。

 

で、話は変わって、

アレ?さっき「一つの考えが引っかかって」って言ったけど二つになっちゃうな? まぁいいか。

 

ネットの情報というかネット上の人格の振る舞いというか、なんだか皆さん厳し過ぎない?ということ。

このところ(というか結構昔から)、有名人が普段の振る舞いとは逆の言動をしたことで、ネットで非難されていることが多いんだけれど、いや、それ自体は批判されるべきことなんだけれど、それでもう幻滅したとかファン辞めたとか、ちょっと厳し過ぎない?ということ。あ、でも厳し過ぎない?っていうのは、もっと緩くしろっていうことではないのでもう少し話に付き合って欲しいんだけれど、例えば実際の友達、いや友達とは言わないまでも知り合い、もしくはリアルでの有名人との接し方って、もっと曖昧模糊としたものというか、なんというか柔らかいというか、いやむしろ粘っこいと言ったらいいのか、なんかそんな感じじゃないかと思う。

 

確かに、理想とする人が自分の意に反した言動をしたら残念な思いはあるけれど、それでもう関係を断つみたいなのはどうなのかなぁと思ってる。

 

僕には僕自身が親友だと思っている(相手がどう思っているかは知らん)人がいて、彼は一時期ちょっと女性蔑視的な発言があった。少し前にかなり問題になった、採用や入試における女性への減点行為を容認するような発言をしていた。問題になるよりかなり前ではあったけれど、「今、採用に関わってて、試験をすると上位は女性ばっかりになって困ってる」と言っていた。

 

これ聞いて、すぐその場で席を立って絶交しようと思ったか?いや、全然そうは思いませんでしたね。

彼が言った意見は容認できないものだったけれど、彼自身を容認できなくなったかというとそれは全く違う。

 

その場では「でもそれが事実でしょ?」とか「もし成績順に採用していったらもっと業績伸びるんじゃない?」とか皮肉めかして言ったかな? とにかく、僕はその意見には反対だよってことは明確にしておいた。

でも心の中では、正直、今、この場で、彼に考えを改めさせてどうなる? 彼がすぐさま考えを改めてくれれば社会がすぐさま変わるのか?ってことを考えた。そりゃ無理だろう。それならば時間をかけてでも彼に考えを変えてもらって、最終的に同じ考えになったほうが社会は変わるんじゃないだろうか?ってことまで考えた。

いや、考えてない。そこまで考えてないや。友達だからその程度のことで嫌いになる訳じゃない、と書くと誤解を受けるかもしれないけれど、彼のその一つの意見は間違っているものの、それ以外では素晴らしい考えをたくさん持っているからって感じ? だから友達なんだし。

 

彼は僕を凌駕する素晴らしい考えをたくさん持っているからそれ故に友達であり、それ故にその一つの欠点だけで関係を断てるような人間ではない。と言ったらいいのかな? 言葉にしづらいけれどそんな感じ。

さらに加えるならば彼のその考えは全く容認しないけれど、彼を信頼しているからこそ、関係を断たずにその考えを改めて欲しいと思った。改めてくれれば強力な援軍になるから。

いや、これも違うな。強力な援軍なんてそんな打算的な考えじゃないや。もっと肌感覚的なもっと無意識なものだな。

 

まぁとにかく、彼は友達なんでその欠点は許せはしないまでも一旦保留することはできるし、友達だからこそ、その場で関係を断つのではなく考えを改めて欲しいと思った。

で、彼にはその後とても可愛い娘さんが生まれたので、彼女が就職する頃、奴に「昔、お前はこんなこと言っていたよな」って強烈な皮肉をかましてやろうかと思ってる。

そんなことができるのも友達だからね。って僕がそう思っているだけかもしれないけれど。

 

まとまってないでしょ。でもいいんだこれで、人間の心の中なんて、僕の心の中なんて、そんなに簡単に割り切れたり説明できたりするもんではないから。

 

と、自分語りしたってよくわからないと思うので、The 1975 のマティでいうと、「サマソニで男女比同数って素晴らしいこと言ったんだから、ステレオタイプな偏見にも注意深くなるように改善してくれよ。嫌いになりたくないからさ。」っていうのが僕の意見。

実際その後来日したライブは優しさに溢れた素晴らしいものだったよ。Sakeは飲み過ぎてたけど。

そういえば、マティって呼ぶ(マッティっぽく呼ぶ人もいる)のは日本のファンだけみたいだね。海外の人はやっぱりMatthewと呼ぶらしい。

 

で話はまた飛んで、前から気になっているのは、YMOのお三方が、あの人とどのような関係性だったのかということ。あの人ってコーネリアスのことなんですけれど。

細野さんってそういうところ茫洋としたイメージがあってよくわからないんだけれど、そして幸宏さんって世論を少し斜に見るところがあったように思うので、開き直りで付き合ってた(幸宏さんが一番関係性が深いよね)ような気がするけど、教授はどうだったのだろう?

こういうところ、「間違いを犯した友達」との関係性として気になる。

 

ちなみにジャニー喜多川の件に関しては意味合いが違うと思ってます。山下達郎の意見は、"ネット評論家" に対する反論としては快哉を叫びたいけれど、彼もグルーミング、そう、彼の場合は経済的にグルーミングされた一人なんだろうな、と思ってます。

 

あと、最近「ポリコレ棒で叩く」なんて言い方があるけれど、これも言語道断。これは「間違いを犯した友達」の話とは全く違う許されない風潮。

ネットの意見は厳し過ぎない?というのは、ポリティカルコレクトネスが厳し過ぎるということでは全くないです。

 

ホントまとまらなくなってきたぞ。どうすんだ?

 

なんていうかさ、ネットの伸張でダイレクトだったり白か黒かみたいな話が多くなってきているけどさ、それって正しいことなのかな?

正しい正しくないっていうのは言い方が良くないかもしれないな。新しさっていうほうが適切かな? ネットの新しさ、これを今享受しているけれど、この新しさを浴び続けることに耐え切れるほど人間って頑丈にできているのかな?

 

新しいものに変わることは否定したくないけれど、もうちょっとソフトランディングしたほうがいいんじゃないかな? お薬強すぎやしないかなって最近思ってる。

 

人間は性別にしろ個性にしろ、二分化できるものではない曖昧で柔軟なものだってわかってきているのに、なんだかネットの議論は白黒つけたがる厳しい議論が多すぎやしないか?

 

っていうのが最近思っているところ。

 

というわけで外が明るくなってきたのでここでおしまい。

 

ちなみに題名は、以前会議でこう言って、「お前コンサルみたいな言い方すんなよ」と言われた僕の発言です。

 

コンサルだったんだからいいじゃないか……

Twitterなくなる?んだってね

このところTwitterが名前を変えて小鳥のロゴもなくなるみたいな話があったり、コミュニティノートなんて結局トーンポリシングの役目しか果たさない変な機能がついたり、なんだかなんだかおかしなことになっている。

 

まぁ元々バズりかた ー いいねのつき方が万を超えるようになったあたりから明らかにユーザーの構成が変わってきたことを感じていて、乱暴な言い方をすれば日本語の読めない人が増えた。構成が変わった始めの頃は、SNSのような文章によるコミュニケーションに慣れていない人が増えたなーという感じだったけれど、今は明らかに文章読解力も構成力もない人が増え、Twitterの発言の半分くらいになっているんじゃないか? そんでそういう人達に訳のわからない所謂クソリプをつけられるのが嫌になった、元々いるコミュニケーションの上手な人達は、敢えて火中の栗を拾うようなことはしなくなり、今は国内の全ツイートにつくリプの1/3以上は元発言者の意図を理解できていないリプライか、正直何を言っているのだかわからないリプライになっているように感じる。

 

でもこれは単純に "バカが増えた" のではなくて、今までもこういう層は変わらない割合でいたのだろうけれど、今まではこういう人達は議論に参加できなかった。バブルの頃が顕著なんだけれど、あの頃って経済的な(というかバブルに乗れた)格差も激しかったけれど、知識のあるなしによる格差がとても激しかった。ある一定の知識があれば議論に参加できるかというとそんなに甘いもんじゃなくて、知識の深さで厳然たるヒエラルキーというかカーストというか、階層があって、それによって議論に参加できるレベルを制限されていたし、最下層は本当に発言の機会、というか、発言しても目に触れる機会も取り上げてもらう機会もなかった。

 

でもテクノロジーの進歩でそういうところがフラットになり、知識や経験や能力がなくとも、知識や経験や能力がある人と同等の発言力が与えられるようになった。発言力が与えられたことで、その発言者を理解する人にも雑多なレベルの人が集まるようになり、全く専門性のない人でもSNS上の "振る舞い" が上手ければ、実績のある専門家の発言を凌駕するようになった。僕はTLC電気泳動(根源的な原理は一緒だけれど)の画像の違いもわからない人に、コロナの遺伝子変異なんて語ってほしくないんだけれど、普通の人は耳障りが良ければそれでいいのだろう。

 

でもこのフラット化っていうのは、WEBが始めから目指していたもので、良い悪いでいえは良いものなんだろう。確かに平等であることはいいことで、その点については間違いはない。

 

ただ今までの社会って、そういう完全にフラットな発言機会のもとに世論が生まれて社会的通念や政策が生まれてくるようなシステムになっていなかったから、そう、世論でさえなんらかの格差によってフィルタリングされたものだったから、今は、既存の社会システムが、新しいWEBベースによって形作られる社会システムを取り込めず、消化不良を起こしているように見える。

 

こういう時には、その齟齬みたいな隙間を悪意を持って利用しようとする人が出てくるし、少なからず混乱が生じる。今ってまさにその "産みの苦しみ" みたいな状況の真っ最中なのではないかな?

 

既存の社会システムがWEBをベースとした新しい社会システムと融合していく上で、おそらく既存の社会システムによって、新しい社会システムを飼い慣らすような動きも生まれてくるんだろうけれど、それもどうなのかな?という気がしている。僕はどちらかと言うとどころか完全なリベラルな立場だと自分を理解しているけれど、今感じているのは、僕が理想とするリベラルはおそらく既存のシステムにより成立したもので、新しい社会システムにより生まれるリベラルとは相容れないかもしれない、しれないどころか必ずそうなるとさえ思っている。そう、できれば既存のシステムがうまく新しい社会システムを飼い慣らしてほしいとさえ考えているところがある。

 

でもこれって、考え方の道理みたいなことに関しては、極めて "保守的" な思想だよね。

 

と、保守とリベラル(完全な対義語ではないけれど)が逆転しちゃったりごちゃごちゃになっちゃった。これは僕の頭が整理できていないせいかもしれないけれど、こういう逆転やごちゃごちゃって、今後生じてくるんじゃないかと言う気がしている。

 

まぁ社会システムについて、対して理解しているわけでもない僕がこうして発言できるのも、"フラット化" の恩恵な訳です。ちゃんちゃん。

 

と、オチがついたのかついてないのかわからないようなところで神保町駅に着いたのでこの話はおしまい。

東京の明治通りを旅する

触発された。完全に触発された。

ココロ社id:kokorosha)さんの最新エントリ

銚子駅から犬吠埼まで歩いたが、海以外も見どころ満載だった - ココロ社

を読んで、ノスタルジーではなく「インターネットってこういうものだ」と思った(主語がでかい)。

 

なので僕も記事を書く。思えばブログを書かなくても「どこかに出かけて写真を撮る」ということはしていた。ちょろちょろっとSNSに載せることはしていたけれど、やっぱりブログだ。エントリーだ。

 

GW前に母の万年筆の修理のために千石の万年筆店、『川窪万年筆店』(ここもとっても面白い店だった)に行って、その帰り千石から池袋まで歩いて、さらに興が乗って池袋から新宿まで明治通りを歩いたら、面白そうな被写体が色々あったので、「今度撮りに行こう」と思ってた。GW明け、気力と暇があったので早速実行してみた。GW前とは逆で今度は新宿から池袋へ向かって。

 

なお、今回は、撮った写真を良かろうと悪かろうと全部載せる。下手な写真を晒して恥をかいてみようと思う。ということで行程で撮った写真、見る人が気持ち悪くならないように「画像回転」で違和感のないようにするだけで、ほぼ無加工で載せていく。

 

ということで新宿五丁目の交差点を歩いてすぐにある花園神社。のっけから露出アンダー。でも修正しない。

 

と思ったら今度は露出オーバー。もしかしたら普通に見える人もいるかも知れないけれど、僕の基準では露出オーバー

 

これが僕の基準では適正露出かなー。プロカメラマンには「アンダー目が好きなんですね」ってよく言われる。

 

ちなみに今回の撮影はすべてフィルム。というか今は『カメラ』といわれるものはフィルムカメラしか持ってない。技術の進歩についていけなくなった。ついていけなくなったのでついていかないようにしたら、かえって面白くなった。

 

東京の繁華街によくある薄い建物。

 

前の写真がフォーカスあってないかも……。と撮りなおしたらむしろこちらがフレームアウトで失敗写真。この辺がシロウト。

 

このカメラはまだ無意識でしっかり撮れるというほど慣れていないので、露出計で露出を確認して、絞りとシャッタースピード決定して、フォーカス合わせて、フレーミングして……。っていうのがリズミカルにできるようになるまで数枚かかる。

 

今ガソリンスタンドって減ってるよね。それと近頃っぽいビルの対比が面白かったので撮ってみた。35mmのアオリなので水平垂直が無茶苦茶。これも盛大にガソリンスタンドの屋根の水平が狂っていたので大幅に回転修正した。

 

こういう無機物が連続している写真って被写体としてそそられるんだけれど、正直僕は得意ではない。

 

で、一枚撮ってから先に進んだら、もっといい被写体が出てくるのは「写真散歩あるある」。

それにしてもこういう写真は下手だ。技術的には背景の処理が下手なんだろうけれど、印象的にも説明調の写真にしたいのかハッとさせる写真にしたいのかどっちつかず。

 

で、歩いていたら偶然に行き当たったので撮った。女子学生さんを取りたかったわけではなくて、自転車の人と学生さんが同じ格好をしている偶然が面白かった。特に足の開き具合。

でもこういう写真は、今は載せないほうがいいのかもね。というかこういう言い訳のような説明を書くこと自体が無粋。

 

新大久保に近くなって、アジア風のお店も増えてくる。グラフィティとアジアと窓の形と思ったのだけれど、どうにも締まりのない写真だ。

 

こういうの苦手だ。交差点で交通安全運動のテント設営をしている町内会のご老人たちを撮ったほうがよかった。

 

絶滅危惧種のビル下のガソリンスタンド(ここも撤去中)。ホントこういう写真は下手だ。下手なのでこのガソリンスタンドの「良さ」を言葉で説明すると、中二階の部分にオイル交換やタイヤ交換をする間に待っている「喫茶店」がある。中二階の喫茶店というのがポイント。昭和生まれの人は親のクルマの整備を待つ間、こういうところでクリームソーダ飲んだ記憶があるんじゃないだろうか?僕はある。

どうもこのところ、こういうガソリンスタンドが気になっていて、今最も気になっているのは、渋谷の宮益坂上のガソリンスタンド。

 

ホンっとガソリンスタンド好きだな。そして写真下手だな。

 

「切り取り系」の写真。ネガフィルムにしてはよく色が出たと思う。

なお、今回使用したフィルムは『Kodak ULTRAMAX 400』。これをスキャナで取り込んでLightroomプラグインNegative Lab Pro』で現像してる。設定はデフォルト。

 

写真見返してたら、これはiPhoneで撮ってSNSに投稿するほうがいいんじゃない?って思えてきた。

 

やっぱり人物が入っているほうが好きだ。現像から上がってみたら左側の人が小学生に見えるけれど、老夫婦。町内会の仲良しさんかもしれない。

 

やっぱり建物の写真でも人が入っているほうがしっくりくるんですよ。しかし左上の信号機の入り込み何とかしろ、俺。

 

これは古びて趣のある事務所だなぁと思って撮ってみたら、その趣が全くフィルムに残らなかった写真。

ちなみに今18枚。36枚撮りのやっと半分です。さらにさらに続きます。SNSに慣れた人には耐えられない長さでしょ?これがブログなんだよ!

 

これ、無人の店内の醤油瓶にフォーカスして、開店前の静けさ(かっこいい言い方だな)を表現しようとしたのだけれど、急にお店の人が出てきて(不審に思ったのかもしれない)意図しない写真になってしまった。人が入っているのなら店前の提灯も含めたパンフォーカスのほうが良かったかもだけれど、こういうのが面白かったりする。

 

学習院下のあたり、人ではなく電車が待つ『踏切』。撮る寸前、ベビーカーがひっくり返りそうになって、ハプニング写真になるところだった。

ちなみに電車に書かれた文字は狙ったものではありません。

 

明治通りをちょっと離れて、神田川に架かる橋を渡る荒川線を撮ろうと思ったのだけれど、肉眼で見るより橋が遠かった。こういうところ、デジカメならばすぐに確認して撮影場所を変更したりできるけれど。あと、ズームだったらフレーミングを工夫したりできるけれど。35mm一本勝負だったのでこういう写真になった。

仕事で景観写真を扱ったりもしていたのだけれど、人間の眼って注目したものに無意識にズームできたりするんだよね。今回はこの人間の眼の素晴らしい能力が失敗の原因。

でもいいんだ。

 

で、しつこく3枚撮ってしまった。同じ場所で何枚も撮るのはデジカメからの悪弊。フィルムカメラはフットワークを軽く。

そのうち慣れてくるだろう。自分に乞うご期待。

 

都電荒川線の消失点」。なんて格好をつけてみたり。

はてなで映画エントリを挙げているDirk_Diggler(id:dirk-diggler)さんはこういう写真を撮るのが上手で、いつも感嘆して憧れているのだけれど、実際撮ってみようとすると全く近づけない。

 

学習院下。ちなみにGW前にロケハン(という名の散歩)するまで、都電荒川線が早稲田のほうまで走っているとは知らなかった、というか認識できていなかった。早稲田のほうにチンチン電車が走っているなぁという感覚はおぼろげにはあったのだけれど……。こんなにぐるっと回っているのだとは思ってなかった。これも都内を散歩するようになった収穫。

なお、『さくらトラム』と呼ぶつもりは今後一切ない。

 

千登世橋。もともと、この橋に行き当たって写真を撮りたいなと思ったのがきっかけ。

 

これ、そこそこ露出うまくいっていると思う。トレーラーと合わせて『鉄』っぽいし。

たまには自画自賛したいのだ。

 

これも、まあいい写真なんじゃないだろうか。

ちなみに、フィルムカと古いレンズで撮っているけれど、いわゆる「クラシックフォト」っていうのは今のところあまり興味はない。というか、ややこしい性格なので、ああいう写真は「正統派の写真」が取れるようになってから撮ってみたいと思っている。「クラシックフォト」自体は大好きだし、いずれは撮ってみたいと思っているけれど、今は「どれだけデジカメと遜色のない写真が撮れるか」が面白い。

 

こういうの、『映え』るのであれば、「あちゃー!工事中か!残念!」になるんだろうけれど、こういうの大好き。警備員さんの並びとか誘導の矢印とか、僕にはとても面白く感じる。自己満足の世界でいいのだ。

 

千登世橋からぐるっと回りこむ交差点、っていうのを撮りたかったのだけれど、もう少し視点を上げないとわかってもらえないね。

 

千登世橋あたりから都電荒川線明治通りから離れてしまうので、もう少し都電を撮りたいなと思って明治通りを脇道にそれた。そうしたら雑司が谷駅の手前でいい感じの蛇行ポイントがあったのでちょっと粘ってみた。

満を持して撮ったのだけれど、電車正面に架線が重なっちゃった。シャッター押しながら「あちゃー!」って思った写真。

 

で、架線がかからない反対側の電車を待って撮ったのだけれど、雰囲気としては前の写真のほうがよかったと思ってる。これが写真の面白いところ。

ちなみに僕には鉄道写真を撮る腕前はこれっぽちもない。

 

で、どうせ明治通りを離れてしまったのだからちょっと道草してみようと思って歩いていたらすごい坂道に出くわした。

「のぞき坂」って名所。アニメ映画でも使われていたらしい。

こういうの、以前の見せたい欲バリバリの旅ブログをやっていた時には、しっかり下調べして満を持して臨んでいたと思うけれど、そういうことはしない。むしろ何の下調べもせずにたどり着いた俺エライ。

なんでもない自分の日常を記述するのがブログの良さ。そして自分の日常が他人の非日常だったりするのがとても楽しいことなんだ。

左側の歩道を駆け下りてゆく娘さんとお母さんがとっても微笑ましかった。

 

で、この辺を歩いているとそこここに「鬼子母神まで〇m」って出てくるので言われるままに……。入谷の鬼子母神朝顔市の時によく行ったけれど、都内には何か所ぐらい鬼子母神があるのだろう?(調べない) あと、新井大師も何か所あるんだろう?(調べない)

 

ということで、36枚撮りフィルム一本分(フィルム送り失敗あり)、お付き合いありがとうございました。

 

このエントリも新宿から池袋までなら、「新宿伊勢丹」から始めて「池袋西武」で終わらせれば収まりがよかったのだろうけれど、全くの自分の趣味で撮っていたものだったので起承転結みたいなものはない。SNSがこれほど一般的になる前は、ブログの戦略として「収まり」とか、今でいう「映え」みたいなものを見せるというのがあったけれど、今ブログではそういうものはむしろ邪魔かもしれない。というか、もともと以前あったような戦略的なブログでも、意図しないポロっとこぼれ落ちてしまった「偶然」が楽しかった、はてなの人たちはそういうのを楽しんでいたところもある。

という、とりとめのない、何を言っているのかもよくわからない締め方で今回のエントリーはおしまい。

 

(久しぶりなのでこの程度を書くのに二時間半もかかっちゃったよ……)

新学期のような天気

今日の起床は10時半。8時に一度起きてゴミを出しに行きましたが、まだ眠いと妻に断わって再び布団に潜り込み、二度目に起きたのがその時間でした。かなりな寝坊をしてしまいましたが、目覚めはそう悪くなく、コーヒーを飲んだらさっさと部屋の掃除を済ませてしまおうという気になりました。

 

いつものように自分の分担である寝室と北側の部屋、玄関とトイレを掃除し、掃除が終わったところでシャワーを浴びました。シャワーの後出かける準備をし、後から入浴した妻を駅のドトールで待つことにしました。妻は人を待たせるのが苦手なようで、僕がダイニングで着替えを待っていると気が急いてしまうようです。それなら先に外に出てどこかでゆっくりしていた方が、妻も心置き無く準備ができるようです。

 

駅で待ち合わせて、遅い昼食と買い物へ。昼食で目指していた店は残念ながら昼休憩で入れなかったけれど、姉妹店で妻はワンタン麺、僕は天津麺を食べました。天津麺は初めて食べた(そもそも天津=カニ玉を頼むことはほとんどというか全くないのだけれど、なぜか目に入って美味しいものセンサーが光りました)のですが、ことの外美味しく、これは絶対にまた食べよう、先に入ろうと思っていた店にも行くけれど、この店にもこれからは来ることにしようと思いました。

 

今日の昼は暖かく、陽光が降り注いでまるで春、それも新学期の時のような爽やかな天気でした。なぜでしょう、暖かさの中にまだ肌寒さを感じると卒業式のイメージですが、寒さの中に暖かさを感じると僕は新学期をイメージします。何かかが始まっていくような感じがそういうイメージを湧かせるのかもしれません。今日は共通テストだったようですが、共通一次(僕達は最期の共通一次世代でした)、センター試験、またまた共通テストと、いつも雪が降って交通機関が乱れる寒い日のイメージがあります。今年はコロナ下で色々障害がある分、天気だけは穏やかで何よりだったなと思える一日でした。

 

2020年1月16日 23:25 自宅のPCの前にて

人の波

今日の起床は8時。妻が午前検診で遅出で、1時間ほど遅い出発になり、僕もそれに合わせる形で起きてこの時間になりました。ただ妻はちょっと遅れたようで慌ただしく準備をしてバタバタと出かけて行き、僕もそれをあたふたと見送りしました。妻はコーヒーも飲まずに出かけたようで、見送りの後コーヒーを入れ、しばらくぼーっとしながらそれを飲んでいました。

 

昨日は妻も帰りが遅く、僕も少し遅くなったのでちゃんとしたご飯を作らず、昨日の残り物を食べました。ちゃんとご飯、お汁物、おかずというご飯を食べなかった日には得てしてあることですが、寝入り端になってお腹が空いてしまいました。我慢できずにバナナを一本食べたのですが、そのせいか朝になってもお腹が減らず、朝食を抜き、昼前になっても食べないままでした。

 

昼過ぎになって外出しました。結局夜になるまであてどなくほっつき歩き、夕方近くになって昼食を食べ、その後閉店30分前のドトールに入り休憩しました。一日駅周辺にいて人の流れを見ていると、定時頃と思われる18時近辺の帰宅の足はかなり減っているように見受けられましたが、ドトールに入った20時近くなると、いつものと変わらないくらいの人の流れに戻りました。当てずっぽうではありますが、普段から定時で帰れるいわゆる『ホワイト』な会社はテレワークなどで通勤低減しているけれど、それ以外の『グレー』、『ブラック』とは言わないまでも忙しく働いている会社はまだまだ通勤低減できないのではないでしょうか?

 

仕事をやめて昼間も街にいるようになって、まだ夕焼け明るい時間に帰れる人が結構いることにびっくりしていましたが、コロナ下でも労働環境の良い会社と悪い会社で、対応の仕方にはっきりと明暗が分かれているのではと感じました。

 

2020年1月15日 22:05 自宅のキッチンにて

コンビニのおむすび

今日の起床は7時。昨日日記を書いた後、思い直して釣りに行こうと思い、リールにラインを巻いて道具を整えて出かける準備をし、始発に間に合うように4時に目覚ましをかけたのですが、結局釣りには行きませんでした。4時ちょっと前に目が覚め、さてどうしようかと考えたときに、どうも釣りをしても心から楽しめるイメージが湧かず、まだ間に合うから後15分、眠れないまでも静かに目を閉じていたら気分が変わるかもしれないと思いそうしていたけれど、どうしても心がワクワクする感じが起きない。こういう時はえてして行っても楽しめず、ストレスを抱えて(釣りは糸が絡まったり、根がかりしたり、かかった魚が逃げたりとストレスの宝庫です。だから釣れた時は無上の喜びなんだけれど)帰ってくることが目に見えていたので、行かないことにしました。

 

妻が出かけた後はしばらく書類整理などしていたけれど、少しお腹が空いて残りご飯を食べたら眠くなってしまって、いつものように、ホントにいつものようの布団にくるまってしまいました。週始めの電話工事のように何かタスクがあれば起きていられるので、睡眠障害ではないだろうけれど、やることがないと眠くなってしまう。やることがないと行っても勉強だとか読書だとかやることはないわけではないんだけれど、『自らを律する』ということが苦手で、怠惰な生活を送ってしまいます。こういうことを書くとだらしない人間と思われそうだけれど、仕事で打ち合わせに遅れたとかは、アクシンデントを含め25年間で片手で数えるくらいしかないんですけれど。

 

昼過ぎ、といういうより夕方近くなって、やっと起き出して入浴し、夕食の買い物と散歩を兼ねて外に出ました。街中をウインドウショッピングしつつ、喫茶店で休憩したりしてゆったりと過ごしていました。途中妻から遅くなると連絡があったので、僕も少し遅くまで出歩いて、家に帰ったのが20時過ぎになりました。飲食店のほとんどが灯りを落とし、灯りが点いているところもスクリーンなどで窓を塞ぎ、テイクアウト営業している看板を下げていました。まだ夜は始まったばかりだというのに、普通に空いている店はコンビニエンスストアぐらい。コンビニエンスストアの店先では、小学生中学年くらいの男の子にお母さんがその店で買ったおむすびを食べさせていました。

 

こういう光景を見て、この二人に対してどういう思いを抱いたかで、今の情勢に対するスタンスが変わるんだろうなと思いました。母親に対して、子供の食べるものくらい自分で作ってやれよ。子供も家絵の帰り道くらい空腹を我慢しろよと思うか、お母さん仕事で忙しくて大変だな。子供だって育ち盛り、この時間じゃ我慢できないよな。二人で温かいものが食べられるお店がせめて一軒でも開いていたらいいのにと思うか、こういう光景が無意識に目に飛び込んできたときに瞬間的にどう思うか? こういうところで人の社会に対する考え方が現れるような気がします。僕は感染拡大を収束させるという観点から見れば甘いのかもしれませんが、心情的に後者を選びます。

 

2020年1月14日 23:30 自宅のPCの前にて