戒厳令下のフルオさん

- 続 FOOL ON THE WEB -

Strict過ぎない?

深夜に目が覚めてしまって、で、そういう時って一つの考えが頭蓋骨の裏あたりに引っ付いて剥がれない。なのでちょっと日記に書いてみる。これは鍋の焦げをヘラでこそぎ落としたり、冷凍庫の霜を空瓶で崩したり(ホントに冷凍庫の霜は空瓶で叩くと笑っちゃうくらい落ちるんだよ!試してみて!ってもう今は霜なんかつかないか)する作業みたいなもんで、落着するとかは考えていない。

 

昨日の16時から24時間、Twitter(X)を、投稿はもちろん見ることもやめていた。ようわからんけどなんかそういう運動があったようなので。Twitterを見なかった分、本や新聞を読むようにした。で、わかったことなんだけれど、「校閲された文章だけを目にするのはこんなに心地の良いことなのか」ということだった。どうもこのところというか、かなり前から気になっていたんだけれど、本とかテレビとかって必ず校閲作業が入ってますよね。雑誌とか生放送とか、いくらかいい加減なものもあるけれど、少なくとも校閲とはいかなくとも「他人の目を経ている」って大切なことなんだなと。ネットの情報が既存のマスコミと大きく違うのは、この校閲の有り無しなのかな?と。

 

たぶん、新しいメディアに対応している人はこの部分、自分で校閲する客観的なフィルターを持っていて、それを通して見ることができるんだろうけれど、僕はその素敵アイテムは残念ながら持っていない。剥き出しの情報を剥き出しのまま見てしまう。

 

これって結構、自分の心の余裕を削っちゃうんですよね。他人と同じかどうかはわからないけれど、所謂ネット疲れ。いや、ダイレクトなものをダイレクトに見るって凄く刺激的で蠱惑的なことなんだけれど、やっぱり荒削りなことは否めなくて、100番くらいの紙ヤスリで擦られたような感覚が残る。

 

僕はこういうところ、やっぱり古い人間(なんたってフルオを自称していますからね)なんで、荒削りされた後、目の細かいヤスリで整えられて、別の仕上げ屋さんが磨いたもの、ことによってはそこからさらに漆師の手に渡って艶々の漆塗りに仕上げられたもののほうがしっくりくる。心地よい。理解しやすい。

 

で、話は変わって、

アレ?さっき「一つの考えが引っかかって」って言ったけど二つになっちゃうな? まぁいいか。

 

ネットの情報というかネット上の人格の振る舞いというか、なんだか皆さん厳し過ぎない?ということ。

このところ(というか結構昔から)、有名人が普段の振る舞いとは逆の言動をしたことで、ネットで非難されていることが多いんだけれど、いや、それ自体は批判されるべきことなんだけれど、それでもう幻滅したとかファン辞めたとか、ちょっと厳し過ぎない?ということ。あ、でも厳し過ぎない?っていうのは、もっと緩くしろっていうことではないのでもう少し話に付き合って欲しいんだけれど、例えば実際の友達、いや友達とは言わないまでも知り合い、もしくはリアルでの有名人との接し方って、もっと曖昧模糊としたものというか、なんというか柔らかいというか、いやむしろ粘っこいと言ったらいいのか、なんかそんな感じじゃないかと思う。

 

確かに、理想とする人が自分の意に反した言動をしたら残念な思いはあるけれど、それでもう関係を断つみたいなのはどうなのかなぁと思ってる。

 

僕には僕自身が親友だと思っている(相手がどう思っているかは知らん)人がいて、彼は一時期ちょっと女性蔑視的な発言があった。少し前にかなり問題になった、採用や入試における女性への減点行為を容認するような発言をしていた。問題になるよりかなり前ではあったけれど、「今、採用に関わってて、試験をすると上位は女性ばっかりになって困ってる」と言っていた。

 

これ聞いて、すぐその場で席を立って絶交しようと思ったか?いや、全然そうは思いませんでしたね。

彼が言った意見は容認できないものだったけれど、彼自身を容認できなくなったかというとそれは全く違う。

 

その場では「でもそれが事実でしょ?」とか「もし成績順に採用していったらもっと業績伸びるんじゃない?」とか皮肉めかして言ったかな? とにかく、僕はその意見には反対だよってことは明確にしておいた。

でも心の中では、正直、今、この場で、彼に考えを改めさせてどうなる? 彼がすぐさま考えを改めてくれれば社会がすぐさま変わるのか?ってことを考えた。そりゃ無理だろう。それならば時間をかけてでも彼に考えを変えてもらって、最終的に同じ考えになったほうが社会は変わるんじゃないだろうか?ってことまで考えた。

いや、考えてない。そこまで考えてないや。友達だからその程度のことで嫌いになる訳じゃない、と書くと誤解を受けるかもしれないけれど、彼のその一つの意見は間違っているものの、それ以外では素晴らしい考えをたくさん持っているからって感じ? だから友達なんだし。

 

彼は僕を凌駕する素晴らしい考えをたくさん持っているからそれ故に友達であり、それ故にその一つの欠点だけで関係を断てるような人間ではない。と言ったらいいのかな? 言葉にしづらいけれどそんな感じ。

さらに加えるならば彼のその考えは全く容認しないけれど、彼を信頼しているからこそ、関係を断たずにその考えを改めて欲しいと思った。改めてくれれば強力な援軍になるから。

いや、これも違うな。強力な援軍なんてそんな打算的な考えじゃないや。もっと肌感覚的なもっと無意識なものだな。

 

まぁとにかく、彼は友達なんでその欠点は許せはしないまでも一旦保留することはできるし、友達だからこそ、その場で関係を断つのではなく考えを改めて欲しいと思った。

で、彼にはその後とても可愛い娘さんが生まれたので、彼女が就職する頃、奴に「昔、お前はこんなこと言っていたよな」って強烈な皮肉をかましてやろうかと思ってる。

そんなことができるのも友達だからね。って僕がそう思っているだけかもしれないけれど。

 

まとまってないでしょ。でもいいんだこれで、人間の心の中なんて、僕の心の中なんて、そんなに簡単に割り切れたり説明できたりするもんではないから。

 

と、自分語りしたってよくわからないと思うので、The 1975 のマティでいうと、「サマソニで男女比同数って素晴らしいこと言ったんだから、ステレオタイプな偏見にも注意深くなるように改善してくれよ。嫌いになりたくないからさ。」っていうのが僕の意見。

実際その後来日したライブは優しさに溢れた素晴らしいものだったよ。Sakeは飲み過ぎてたけど。

そういえば、マティって呼ぶ(マッティっぽく呼ぶ人もいる)のは日本のファンだけみたいだね。海外の人はやっぱりMatthewと呼ぶらしい。

 

で話はまた飛んで、前から気になっているのは、YMOのお三方が、あの人とどのような関係性だったのかということ。あの人ってコーネリアスのことなんですけれど。

細野さんってそういうところ茫洋としたイメージがあってよくわからないんだけれど、そして幸宏さんって世論を少し斜に見るところがあったように思うので、開き直りで付き合ってた(幸宏さんが一番関係性が深いよね)ような気がするけど、教授はどうだったのだろう?

こういうところ、「間違いを犯した友達」との関係性として気になる。

 

ちなみにジャニー喜多川の件に関しては意味合いが違うと思ってます。山下達郎の意見は、"ネット評論家" に対する反論としては快哉を叫びたいけれど、彼もグルーミング、そう、彼の場合は経済的にグルーミングされた一人なんだろうな、と思ってます。

 

あと、最近「ポリコレ棒で叩く」なんて言い方があるけれど、これも言語道断。これは「間違いを犯した友達」の話とは全く違う許されない風潮。

ネットの意見は厳し過ぎない?というのは、ポリティカルコレクトネスが厳し過ぎるということでは全くないです。

 

ホントまとまらなくなってきたぞ。どうすんだ?

 

なんていうかさ、ネットの伸張でダイレクトだったり白か黒かみたいな話が多くなってきているけどさ、それって正しいことなのかな?

正しい正しくないっていうのは言い方が良くないかもしれないな。新しさっていうほうが適切かな? ネットの新しさ、これを今享受しているけれど、この新しさを浴び続けることに耐え切れるほど人間って頑丈にできているのかな?

 

新しいものに変わることは否定したくないけれど、もうちょっとソフトランディングしたほうがいいんじゃないかな? お薬強すぎやしないかなって最近思ってる。

 

人間は性別にしろ個性にしろ、二分化できるものではない曖昧で柔軟なものだってわかってきているのに、なんだかネットの議論は白黒つけたがる厳しい議論が多すぎやしないか?

 

っていうのが最近思っているところ。

 

というわけで外が明るくなってきたのでここでおしまい。

 

ちなみに題名は、以前会議でこう言って、「お前コンサルみたいな言い方すんなよ」と言われた僕の発言です。

 

コンサルだったんだからいいじゃないか……