戒厳令下のフルオさん

- 続 FOOL ON THE WEB -

ジャニーズ的なるもの

今日の起床は6時。起きてトイレに行く時にリビングの時計を見たら、5:55分でした。前にも書きましたが僕は目にした数字が気になります。なんか意味を求めてしまう。555もゾロ目だねーというだけではなくWRCのスバルチームのスポンサーだったねーとか。昔、銭湯の下駄箱の「3」は取り合いだったっていうのもとてもよくわかる。僕もコレ一つには決められないけれど、下駄箱とかロッカーの番号は「31」、「34」、「46」、「74」のどれかだとなんだか嬉しいです。でもおニャン子クラブの誰かが会員番号何番だったかは当時も今も興味がありません。と、今思い出して書いて寒気がしたんですが、おニャン子クラブって個人のアイデンティフィケーションが「会員番号」だったんですね。AKBの時代になっても番組名を「さしこのくせに」にするとか、秋元康って下世話な方向に想像力を誘導する能力に関しては素晴らしく長けているように思います。

 

なんか批判めいた話にばかりになってしまいますが、コロナとそれに付随する政府の対応とか人々の考えや動きとかをみて、これから考えを改めようと思ったことの一つに、「ジャニーズ的なるもの」には積極的には乗らないで行こうと決めました。なんだそんな幼稚なことかと笑われるのは覚悟の上ですが、僕はどうも「ジャニーズ的なるもの」を許す思考が意外と日本が立ち行かなくなってしまった要因のひとつではないかと真剣に考えています。ジャニー喜多川に見出されたというだけで銀の匙を咥えて、大したトレーニングもさせないままデビューさせ、ジャニーズというフィルターを外せば学芸会に毛の生えた程度でしかない芸を見せてそれで良しとする、そして受け手もそれを喜ぶ。そうやってチヤホヤしているうちになんだかスター性が出てくる。そういうシステムって日本のあちこちにでみられるような気がします。「ジャニー喜多川に見出され」っていうところ「有名政治家の親の元に生まれ」にしたらそっくりそのまま誰かの生い立ちになりませんか?

 

僕はジャニー喜多川っていう人はかなり才覚のある人だと思っていて、スターに育つ子を見る目があって、たしかに育てた中に素晴らしい才能を持ったスターもかなりの数いるとは思うけれど、その反面ジャニーズのブランドを構築してさらにブランドを維持するために、傑出した才能はなくても人気芸能人を経常的に作り出せるシステムを作り上げてしまった。その弊害はジャニー喜多川がなくなった今、色々な形で現れ始めているように感じます。まさに日本自体の状況と同じように。と、ここまでジャニーズが諸悪の根源のように書いてきたけれど、このシステム自体、の本古来からあるものなんですよね。歌舞伎とかの伝統芸能ジャニー喜多川はかなり研究して、世襲制の「世襲」のところだけを省いたスター育成システムを作ったんだと思います。そういった意味で「ジャニーズ的なるもの」はかなり昔からの日本的なもので、そういう旧弊な考えをそろそろ捨てる時期が来ているという意味でも、「ジャニーズ的なるもの」は今後、積極的には乗らないようにしようと考えています。

 

2020年6月15日 17:20 駅から少し離れたファーストフード店にて